『子どもと倫理学』書評発表 原稿 @2017年p4c-japan夏のワークショップ
- 菱田伊駒
- 2017年9月3日
- 読了時間: 6分
更新日:2018年6月7日
夏のワークショップで発表した内容。
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こんにちは。菱田伊駒といいます。まず、簡単に自己紹介をさせていただきます。梅田から電車で20分くらいの場所に石橋という駅があります。駅降りてすぐの石橋商店街の中にある、「タローパン」というパン屋で働いています。色々経緯があって、働きながら商店街の活性化活動に関わるようになり、その延長で石橋地域たちの子どもたちと一緒に、p4cの活動をしています。最初は月数回、近くのカフェを借りての取組でしたが、今は一軒家を借りて活動拠点とし、石橋にp4cのコミュニティができるよう奮闘しています。
今回、書評にあたって中川先生から「対話的な発表を」との言葉をいただきました。書評自体が手探りであるのに加え、「対話的」とはどうしたものかと考え込んでしまいました。
これから話す内容は、書評のために読んだ『子どもと倫理学』との付き合いを通じて、考えたことです。話を通じて皆さんの関心が少しでも本に向けば、嬉しく思います。
書評をすることは8月上旬から分かっていたので、パラパラと本を眺めつつも発表内容が固まらないまま日々が過ぎていきました。先週くらいになって、いよいよまずいと思い始めたくらいから、この赤い表紙の本の存在、見た目の印象というか、触った感じ、寝る前にページをめくる時の感覚に変化が生まれてきました。それは、手に持ったときの重さ、重たくなっていったということです。本の厚みも前以上に大きく感じるようになりました。読み飛ばしていた一文一文に「あぁそういう考え方があるのか」、あるいは「いや、自分はこうは考えないぞ」と思い始めたのです。
丁寧に読みたいと思って内容をゆっくり追っていくと、同意、反論、疑問、共感、連想・・・そういうように、気持ちを動かされるようになっていったのです。本に対する愛着も湧くようになり、出かける時に読みもしないとわかっていながら、とりあえず鞄にいれて持ち運んでみて、妙な安心感を覚えたりもしました。そうしているうちに、ふと思い浮かんだのが「ものを大切にする」とはどういうことだろうか?ということでした。
「ものを大切にしなさい」、自分の持ち物を丁寧に扱いなさい。ランドセル、教科書、筆箱、鉛筆・・・こういうことは色々な場面で言われます。しかし、「大切にする」ことを、自分の思いのままに決められるのでしょうか。自分で大切にするかしないかを決めて、実際にそのように行動する、というよりは、物に対して「勝手に」大切だなぁ、という感覚が芽生えてきたのが実感です。
子どもについて考えてみるとどうでしょうか。こどもは「これこれを大切にしなさい」と親や先生から言われてもなかなか聞きません。一方で「大切にしなさい」と誰もいわないもの、カードゲームであったりゲームソフトや人形、場合によっては何の変哲もないタオルケットや石ころを熱心に丁寧にあつかったりします。「もういい加減すてなさい!」と、そこらへんでひろった葉っぱを捨てるよう子どもに向かって親がいらだつ場面も、容易に想像できます。
こういうことを考えていると、「ものを大切にする」というのはそんなに単純ではないような気がしてきます。そもそも、大切に「する」とはどういうことでしょうか?どうすれば、何かを「大切にする」ことができるのでしょうか?文科省が出している資料「小学校学習指導要領解説 特別の教科 道徳」(http://www.mext.go.jp/…/__icsFiles/afieldfile/2016/01/08/13…)
の中に、学年別に指導の観点を整理してまとめたものが書かれています。19項目のうち、10項目目に「約束や決まりごとを守り、みんなが使うものを大切にすること」と書かれています。
ぼくが本を通して出会った問いは、資料と重ね合わせるとまさに「道徳的な問い」と言えるかもしれません。しかし、小学1,2年生で指導すべき内容に、27歳のぼくは答えるどころか、問いに出会ったばかりでこれから考え、学んでいく途上なのです。これをどのように考えればよいか。ぼくが学校で道徳の授業を真面目にうけてこなかったからでしょうか。このことについて、本に戻ってもう一度考えてみたいと思います。
「こどもと倫理学」の1章、8ページに、幼児の道徳的体験の始まりについて書かれた箇所があります。このように書かれています。
初期の道徳体験は、子ども自身の数々な探究行動に由来するのです。わたしは、このことを強調したいと思います。(中略)子どもの道徳の学びは典型的には指導教授によるのではなく、子どもの行動と他者の応答の全体に由来するということを再認識させてくれます。また、こうした道徳の学び方は、幼児に特有なことではなく、生涯を通じて続きます。
幼児は自分自身で「こうしたい」と思って物を触る、人に対して働きかける。働きかけることによって生まれる他人との相互作用のなかで「こうすれば親に甘えることができる。こうすれば怒られる、褒められる」と知っていく、ということだと思います。
ここで、ぼくが注目したいのは、「(幼児に特有なことではなく)、生涯を通じて続く」という部分です。ぼくたちは子どものときに比べると、他人との関わり方の作法を身につけています。先生であれば、身につけるだけでなくそれを「教える」立場にいる。しかし、実際はぼくたちもまた、道徳体験を積んでいる最中であり、学びつつある「探究者」である、ということです。
道徳の学び方を考えるには、2章、30ページも参考になるかもしれません。ジェローム・ブルーナーの考えである「らせん状のカリキュラム」が紹介されています。
基本的な事柄に対する子どもの直観的な理解から始まって、年月を重ねるにつれて、次第に洗練されたもっと抽象的ないし形式的なレベルで、この同じ基本的な概念、テーマ、問題へ戻っていくという考えです。
本の著者であるフィリップ・キャムは「らせん状のカリキュラム」の考えを紹介した後、このように書いています
教科の基礎についてのブルーナーの主張は、早い段階から倫理学を導入することは、無くてはならない教育の機会の一つであるということを示唆し、小学校の諸学年から児童に倫理学を導入する可能性を見逃さないようにという私たちに対する忠告なのです。
最後に、一番大切だと思うにも関わらず、考えきれなかったことについて触れておきます。探究の「コミュニティ」という考えです。キャムは、「共に考える」ことをとても重視しています。「共に考える」ことの意味については、p4c業書から出されている一冊目の本、『共に考える』で詳しく述べられているので、ご興味のあるかたは、そちらをご覧ください。
ここでは、考えることの「イメージ」について、『子どもと倫理学』の86、87ページ、また、監訳者の桝形先生があとがきでも触れている部分を引用するに留めます。
考えるというと、「ロダンの考える人」のイメージにように、1人で、じっくりと考える、ということを思い浮かべる人が多い。しかし、共に議論するという思考のあり方は、ラファエロの「アテナイの学堂」のイメージである。
さらに加えるなら、ラファエロの『アテナイの学堂』よりもっと素敵なイメージを加えたいと思います。それは、p4cjapanのHPのトップにかかげられている、みんなで輪になって、大人も子どもも、服装も関係なく、コミュニティボールを囲んで話している様子を描いたイラストです。
ご清聴ありがとうございました。ぜひ、みなさんのご感想を聞かせていただけると幸いです。
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