人数
- 菱田伊駒
- 2017年12月21日
- 読了時間: 3分
土曜日のp4cで、小学4年生の男の子が「大勢の人がいるとしんどい」と言っていた。話を聞いていると、大勢だと話が飛び交ってついていけなくなると言っていた。その後は、大勢でいるとき、少人数でいるとき、1人でいるとき、それぞれの違いについて考えた。
p4cが終わったあとも、人数のことを考えている。自分のこれまでを振り返ってみると、部活とかクラスとかサークルとか地域とか、そういった単位が自分が何かを考える時の基本的な単位になっていた。コミュニティ、という言い方ができると思う。
コミュニティの中には複数の人間がいる。人間関係は網の目のように複雑に絡み合って、その網の目の結びつきは強かったり弱かったりする。そういう網の目の中にいる自分、という考え方をしていた。人数という意味では、大勢のことを考えていたと思う。
最近は、あまりそういうことを考えない。コミュニティについて考えていると、自分が本当に関心のあるテーマから離れていくと感じ始めている。まだ、納得のいく言い方が見つかっていない。
5人なり6人なりでp4cをして話すときと、p4cが終わったあとに自然と隣にいた子と話す瞬間は、自分の話し方が変わっている気がする。多分、友達といる時でも、大勢でいる時と帰り道に友達と2人で帰る時の話し方は違っていると思う。
できれば、大勢でいる時も、2人でいる時も変わらない話し方でいたい。2人で話しているのに、必要以上に大きな声で話してしまったり、わざとらしく笑ったときに、急に恥ずかしくなる。さっきまで、あれだけ大声で話したり笑ったりしていたのはなぜだろうと思う。
こういう恥ずかしさに似た感情は、他でも味わうことがある。好きなバンドのライブを、友達と見に行ったときがそうだった。友人が音楽に合わせて手を挙げてジャンプしているのを見て、自分もそうする。周りに合わせて動くものの、自分だけ上手く動けていないのではないか、と思ってしまう。大声で叫んでいる人を見ると、自分もそんな風になれたらと思う。そんなことを考えながら体を動かしている。後から自分を振り返ると、恥ずかしい気持ちになる。
こういう恥ずかしさに向き合おうとすると、良いとも悪いとも言い切れない気持ちになる。社会生活を送っていく上での必要なスキルの意味合いがあるからだろう。自分の好き嫌いではなく、やらなければいけないかどうかで行動している。
どの程度が「やらなければいけない」のかは、人によってライン決めが違う。過剰な義務感を持つと、徐々に、やらなければいけないことで生活が浸食されてしまう。子どもであってもそれは同じで、ラインの範囲を押されたり押し戻したりで日々を過ごしているのだと思う。
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