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記録

p4cの実践、日々を過ごしていて気づいたことについて書いています。

ズレ


自分が行ったp4cを「上手くいかなかった」と振り返ったことがあった。その原因は、1~6年生までを一緒にしてp4cを行ったからだと考えて、これからはある程度学年を分けようと思っていた。その考えの後ろには、「やはり1年生と6年生では考えていることのレベルが違っている。それぞれの「幼さ」に合わせたクラス設定が必要だ」という思い込みがあった。

その思い込みにはさらに1つの前提がある。「哲学的対話にもスキル的な要素があり、積み上げて身に着けていくものだ。段階的な学習が必要だ」と。確かに、対話が成り立つためにはスキル的な要素は不可欠だ。


しかし、一方で、そういった「スキル的な要素」ばかりが先行する風潮に嫌気がさしているのが自分ではなかったのか?その風潮を批判しながら、結果として自分がやっていることは「積み上げ型」を鵜呑みしているだけではないのか?という疑念がわいてきた。

人と話すときに大切なこと、それは「聴く」ことであり、「聴く」ことは、相手の話題について事前に勉強するとか、相槌のテクニックを学ぶとか、相手の目を見るとか、そういうマニュアル的なこととは一切関係がない。そのような「スキル」とは遠く離れた場所に「聴く」という行為はある。


性別にも、年齢にも、学歴にも、それまで積んできた人生経験とは全く関係がなく「聴く」ことはできるし、反対にどれだけ相手と共通点があったとしてもそれだけで「聴く」ことはできず、単に聴く前の準備体操が少しできているのかできていないかだけの違いでしかない。そんな思いで、大人であっても、子どもであっても向き合おうとしていたつもりで、全くできていなかった。自分が、いつのまにか聴くことを「身につける、段階的に学習していくテクニック」だと勘違いしてしまっていたことと同時に、もう1つ気づいたことがある。それは、相手とのコミュニケーションのズレ、衝突、そういうものを単にネガティブだと決めつけ、無意識のうちに避けようとしていたことである。


相手との「ズレ」に関して、ある会話があった。ある日の職場での出来事。

Aさん「子どもが小さいころから哲学をやってるとどうなるんだろうね」 ぼく「そうですね。まだ分からないんですけど、でも、イベントの最中に話がうまくできるようになるとか、そういうことじゃなくて、イベントの外の子どもの生活というか、そういう普段のことが変わっていくと面白いと思いますね」 Aさん「それは壮大なことやねぇ」 (少し時間があく) Bさん「でも、こどもの性格が変わるなんてちょっとすごいことですね・・・」 ぼく「あ、いや、そうじゃないですよ。『生活』です」 Bさん「あ、『性格』じゃなくて『生活』ですか」 ぼく「それは性格が変わったら面白いですが、そこまで狙ってやると洗脳になっちゃう」 Bさん「いや、そうですよね」

この会話のズレは単純だ。ぼくが発言した「せいか『つ』」が、相手には「せいか『く』」に聞こえていたのだ。音1つの違いでしかないし、聞き間違いはよくあることだ。しかし、この2つの違いが与える印象は大分違う。子どもを預ける親の気持ちになってみれば、「性格を変えられてしまうのか・・・」と不安に思う気持ちが湧くかもしれない。

幸い、この会話では「ズレ」は明らかになり、何がズレているかのギャップも分かったので、簡単に修正することができた。しかし、いつもそうだとは限らないし、こうした場面は気づかないだけで多いのかもしれない。

もう1つ、子ども哲学でのある場面。

小3「ピアノをやってると結構難しいことが多くて、自分より年下の子が、自分ができないことできると悔しいわ」 小1「ピアノ簡単、猫ふんじゃったもすぐ弾けたよ」 小3「それは簡単だから。そんなんじゃない」 小1「でも・・・」 (少し空気がざわつく) ぼく「まぁ簡単な曲と難しい曲があるから。それで、どうして悔しいって思うの?」


このp4cの時間は、1年、3年、4年、6年、大人と、参加者の年齢も様々で、テーマは「憧れ」、この直前に6年生の女の子が「憧れは、自分ができないことをやっている人に対して持つ感情だと思う」という発言をした。少し、1年生の女の子にとっては難しい話が展開されていて、それでもなんとか話に入ろうと1年生の女の子は頑張っていた。この会話のズレは、少しややこしい。見ていたぼくの推測にすぎない部分も混じっているが、1つずつ考えてみたい。


まず、1年生の女の子の中でのズレ。多分、会話に入りたいという気持ちが先行して、参加したいがために思ってもみない発言を言ってしまったような印象がある。なんとなくだが、こういうことはよくあると思う。一発逆転の発言というか、周りと違うことを思い切ってやってみることによって注目を集める方法。多分、1年生の女の子は、ピアノが簡単だとは思っていないと思うし、猫ふんじゃったを弾けるようになるのにもそれなりの練習をしたと思う。けれど、話の流れとちょっと違った発言をしてやろうと、「ピアノなんて簡単」と言ったのだと思う。口調も少し攻撃的だった。


もう1つ、3年生の女の子とのズレ。なんとなく、ぼくの側では「この子が言いたいのは、『自分も発言したい、聞いてほしい』ということではないかな?」と思った。一方、3年生の女の子は、自分が攻撃されたように感じたのか、強い口調で「それは簡単だ」と発言した。


そして最後のズレ。ぼくの発言だ。いくつかのズレが会話の中で重なっていて、1つ1つがそれぞれの子どもたちの思いによって生み出され、意味のある物だったと思う。それらの思いとは全く別の「難しい曲も簡単な曲もある」というお茶を濁す発言で、もっとも大きなズレを生み出して全体を覆って、煙に巻いたのだった。せっかくの散らばっていた材料を「大人のやり方」で片付けてしまったのだった。


この後、会話は全く別の方向に、それなりに展開していった。けれど、ぼくのなかに「片付けてしまった」という気持ちは残った。それぞれの子どもたちにも、「意図せぬ形で片付けられてしまった」という思いが無意識のうちかもしれないが、もやもやと残ったのではないかと思う。何が正しかったのか、もう終わってしまったことについてのぐるぐるとした思いが今も残っている。


普段でも、ぼくたちの会話は、どこか「ズレ」ている。そのズレを、時にはどちらかが我慢をして、ごまかして、もしくは共犯になって「ズレ」が目立たないよう覆い隠す方法でやりすごしている。目立たなくなり、隠された「ズレ」は、日の目を見ないままですむ。けれど、「ズレた」という感覚だけは、互いの中に残る。それが、少しずつ積み重なってある日、取り返しのつかない「亀裂」を生んだりする。


大事なのは、「ズレ」を生み出さないようにすることではない。どうしたってすれ違いは起きる。そうではなくて、その不協和音に耳を傾け、観察することだ。それが自分を知り、人を知り、関係性を変化させていく方法になるのだと思う。「ズレた」と思うことは初めの第一歩だ。普段どんなズレをごまかし、なかったことにし、自分の中や、他人の中に押し込めているのかを思い知らされること。そうした悔しい、辛い、恥ずかしい、照れくさい経験からしか出発することはできない。


そう思ったとき、ぼくにとって、子ども哲学のイベントが「上手くいく」とはどういうことだろうかと改めて考える。話がスムーズに展開されるとか、考えが深まるとか、子どもの発言がしっかりしているとか、そういうことは二の次でしかないはずだ。


「ズレ」が目の前に生まれ、それを目の前に困惑し、今までできていたことが、できなくなる体験。それこそが大切なのだ。派手である必要はない。ただ、「上手くいった」と感じたときは大抵上手くいっていない。だから、「上手くいかなかった」という体験こそ味わうべき、貴重な瞬間なのだ。


 
 
 

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